2024/08/03
先日、とある仲間が大きな課題を抱えていた。
その彼に、「〇〇な選択肢を選べ」とアドバイスをした。
しかし彼は反論した。
「そうは言っても蔵元さんほどの知識や経験、ネットワークは持っていない、自分に〇〇な選択肢を選ぶなんて、自信が無い」と。
その「自信が無い」という言葉に、僕は激しく叱責した。
電話でおそらく30-40分、激しく叱責した。
彼がそれを理解したようには思えなかったが、いったんは「わかりました。出来るだけのことをやってみます」と言って電話は切られた。
自信が無いことは叱責されることか?
現実的に、彼の知識・経験で自信が無いのは事実だろう。
それでは何故、彼は激しく叱責されたのだろうか?
その前に、自信とは何かを解説しておく。
自信とは読んで字のごとく、「自分を信じられるか?」という意味である。
そういう意味では、クリティカルに自分の知識・経験・能力を認知すれば、彼が「自信が無い」というのは適切である。
むしろ適切なメタ認知が出来ずに「自信がある」と言っている人を目にすることもあるが、そちらの方がよっぽど危なっかしい。
それでもやはり「自信が無い」と言っているようではイケナイのだ。
「自信は無いが、、、」と言えなきゃイケナイ
言葉遊びのようだが「自信が無い」ではいけなくて、「自信は無いが、、、」だと良いというのは、以下のような意図が込められている。
世の中には2種類の人が居る。
「自信が無い」が言い訳として通用すると思っている人と、そうで無い人だ。
結論から言うと、「自信が無い」という言い訳は通用しない。
運転手が「自信は無い」と言えば、交通事故や交通ルール違反が許容される訳ではない。
執刀医が「自信は無い」と言えば、手術の失敗が許容される訳ではない。
では、「自信は無いが、、、」とはどういう状況なのか?
それは、客観的自己認知として自信があると言える状態ではないが、考え得る準備は十分に行った状況のことを指す。
要するに、自信が無いことが問題ではなく、それを理由に思考停止・行動放棄・しっぽを巻いて逃げることが問題なのである。
自信が無いのは、対峙するに相応しい情報や知識・経験・ネットワークなどが不足しているということだ。
であれば、それを補うために、いま何が出来るかを考え、行動するのが「考える葦」である人間のすべきことだ。
自分には出来っこないと言って、ママに泣きついて抱っこしてもらうのは、大人のなすべき所作ではない。
僕自身、15年の会社経営をする中で、自信があった瞬間はかなり少ない。
しかし、(それでも不十分ではあるが)その時々で考えられる対策、得るべき情報、学ぶべき知識、体力的に可能な限りギリギリの行動量で対応してきた。
今でも月に10冊以上の読書、週平均7日の稼働、一日平均12-16時間の稼働をしているので、自信は無いが及第点くらいの努力量は自負している。
簡単に言うと「自信は無いが、やれるだけのことはやった自負と覚悟がある」という感じだ。
彼に何を叱責したのか?
話を冒頭に戻して、僕はどうして彼を、そこまで激しく叱責したのか?
「自分は大谷翔平じゃないんだから、そんなに何でも出来はしない」と泣き言を吐き続けることに、激しく叱責した。
僕は彼に、いまやれることは、まだまだたくさんあると説いた。
それは、類似のケーススタディを徹底的に調べることとか、頼りになりそうなパートナーを求めて100社にコールドコールをしてみるとか、それは大谷翔平のような恵まれた体格でなくても、健康で日本語が話せるのであれば、おそらく誰でも出来ることを指示した。
しかし彼は「それをやっても上手くいくとは限らない」、「100件とは言わないが、これまで数件はやってきた」、「自分は蔵元さんほどの経験は無いので、行動しても成功率は低いに決まっている」と反論した。
「僕に経験があるのは、その無駄に見える100件を何度もやり続けてきたからだ」と説明したが、彼がどれほど理解したかは不明だ。
少しでも多くの人に訴えたいこと
僕がBNGパートナーズでの活動を通じて、世の中に訴えたいことの一つとして、「多くの人は本当はデキルことを、自らデキナイと言い聞かせて、希望に満ちた人生を自ら放棄している」ということだ。
多くの起業家や成功者を見て、常々思うことは「みんな普通の人だ」ということだ。特別な能力を持っている人なんていないし、特段に頭の回転が早いわけでもないし、学歴だってバラバラだ。
ただ共通しているのは、意欲があること、素直なこと、ちょっとした努力を継続していること、へこたれないこと、くらいな気がする。
誰だって成功者にはなり得るチャンスを持っているのだ。保証は無いけど、権利は持っているし、レースに出場することは、いつでも誰でもできる。
そんな人生を選ばないのも個人の自由だが、その場合は、いま当たり前のように享受している権利を失う可能性も多いし、不平不満と共に生きる覚悟(こっちの覚悟の方が実はトテツモナイ)も必要だし、世の中の子供たちにそういう背中を見せていることも自覚しなければいけない。
本当はできるのに、自ら放棄している。
「君が無駄に過ごした“今日”は、昨日死んだ誰かが死ぬほど生きたかった“明日”なんだ。」(『カシコギ』趙 昌仁著)という名文句と同じ意味なんだと思っています。
彼が再び「できる理由を考えて、人の3倍行動し続ける、夢と希望にあふれた姿」に戻り、次世代の子どもに、その背中を見せれる人生を送ってくれることを願っている。