2024/08/03
今日は、元部下で、親友で、経営者仲間だった大祐の命日だ。
奴と僕は同学年で、出会ったのは25歳だった。
グッドウィルで採用業務に携わっていた僕は、当時国内ナンバーワンのブラック企業( 有形商材 × B2C × 飛び込み営業 )で3年ほど営業経験のある25歳の若者の履歴書が目に留まった。
若手人材を募集している複数の部署にかけあうが、あまりにもスキルが不足しているという理由で全部署から書類NGと判断された。
「そんな訳はない」と思い、当時は面接する権限を持っていなかったが、それも彼に説明したうえで北陸から上京してもらい面接した。
会ってみると自分の判断は正しかったと確信し、社長に直談判して、その日のうちに社長面接、そのまま事業部役員面接をし、即採用となった。
入社後、相当苦労はしただろうが、確か月給20~22万円くらいで毎日16時間働いてくれた(当時のベンチャーはそんなもんだった)。
その後、彼の配属された事業部は、イロイロイロイロイロあり、一時期は僕が事業部長代行を務めさせていただくこともあり、一緒に安月給(150名の会社で、役員以外で2番目に給与が高い僕でも月給35万円だったw)で闘いぬいた。
そして、24時から西新宿の思い出横丁で、所持金とにらめっこしながらビールと餃子を喰らい、会社の未来を語り合った。
その後、ジェイブレインを共同創業した僕らのもとに、創業2年後くらいから参画してくれた。
北陸で個人向け飛び込み営業を経験し、新宿で人材派遣営業を経験した彼には、ITエンジニアとして建設系の会社に派遣スタッフとして行ってもらった(爆笑)
その後、ジェイブレインでは、もっともっと過酷な出来事を一緒に経験した。
終電が無くなった24時30分に、全従業員がオフィスにいるような会社だったww
メンバーより、マネージャーが先に、程度の良い段ボール(オフィスで寝るときの敷布団)を選べるというヒエラルキーのある会社だった。
30代前半のだいすけはマネージャーから事業部長になり、月給は32-33万円くらいまであがっていた(←超ブラックで笑えるw)
僕らの青春をすべて捧げたその会社は、IPO直前期にして、リーマンショックという津波に襲われ海の藻屑と消えた。
その後、僕らはそれぞれ起業という名の資金繰り地獄に30代半ばから再び突入し、人生2度目の最貧困を経験することになった。
だいすけとは再び貧乏赤提灯で酒を酌み交わすことになるのだが、不思議と違和感はなく、若いころに戻れたような幸福感すらあった。
40代半ばになり、ようやくお互いの会社も軌道に乗り、すしざんまいでご飯が食べられるようになったw
へたくそだったけどゴルフもはじめ、年に数回は一緒にラウンドするようになった。
年始にジェイブレイン時代からの戦友であり、いまは経営者仲間の数名で、(遠くて安い)ゴルフ合宿をして、コンビニのおつまみで部屋呑みして、夢を語り合い、かつての苦労を労い合い、泥酔して雑魚寝して、まだまだだけど少しだけ豊かさを実感できるようになってきた。
2年目のゴルフ合宿のときに、だいすけに「痩せろ、死んだら殺すぞ」と𠮟りつつ、「本当にお互い苦労してきたね、これからは闘うだけでなく、豊かさも大切にしよう」と語り合った5か月後に突然の訃報だった。
口から出た言葉は「あの馬鹿野郎、、、裏切りやがって」だった。
涙が止まらなかった。
いつか豊かになれるはず、若い頃の苦労(かなり大苦労)は絶対に無駄にならないと信じて、ようやく乗り越えたかな?と思えるタイミングだった。
2週間くらい受け入れられない日々が続いたが、少しずつ気持ちの整理をしていった。
彼の会社のメンバー、後継者、ご家族の皆様、もっと受け入れがたい方々は多数いたはずだった。
あいつが生きていれば、今年はともに50歳デビューだった。
あの馬鹿野郎だけ46歳のまま時間は止まり、これから年齢差は開くばかりになってしまった。許せん!
きっと今ごろ天国で、ビールとホルモンと揚げ物と、肥満気にせず楽しんでいることだろう。
でも、つぎ会ったら、ぶん殴ってやる!
それまで、あいつの分も人生を謳歌してやる。